引き続き、アドラー心理学の記事です。
昨日は、アドラー心理学のこんな点について書きました。
・叱っても褒めてもいけない
・承認欲求を否定する。
このへんについて、別の本の内容でもう少し整理していきたいと思います。
昨日の記事はこちら
「叱っても褒めてもいけない」という、アドラー心理学の考え方。 - いつもマイナーチェンジ!
本日の本はこちら。
叱っても褒めてもいけない②
一部抜粋
ごほうびやほめ言葉につられて、私たちの言う通りの行動を取る人がいたとしたら、その人は自分の意思で行動しているのではありません。ですから、私たちがごほうびやほめ言葉をやめてしまえば、その行動をとらなくなります。つまり、ごほうびやほめ言葉で相手を釣る限りは、一生それをやり続けなくてはならないということになります。
これも身に覚えがあります。
もっと言うと、回数を重ねるごとに、褒め方をアレンジしていかなければなりません。
最初は「よくやってるね。」と一声かけるだけでよかったものが、毎回同じ言葉をかけていると、ただの決まりセリフのようになってしまいます。
やり続けながら、更に言葉やタイミングなどにも注意を払いながら永遠に続けていかなければなりません。
これって、結構大変なんですよ。
言われる側としても、毎回同じようなことを言われると、逆に気分が悪くなってしまいます。
こういう事を考えながらやるのも含めてコミニュケーションなんだと思っていたのですが、最近、これは違うのでは?と思うことがあるんです。
それは、役職が上の人ばかりがやたらと周りに気を遣い、一般職の人が堂々と振る舞っているシーンを見ることが多くなってきたからです。
役職者が威張ればいいと言っているわけではないんです。
一般職がヘコヘコ頭を下げればいいといっているわけでもないんです。
責任ある立場になればなるほど、生きづらくなっているように見えるわけなのです。
かくいう僕自身も、直接的な業務よりも、こういったメンタル面で頭を悩ませることが多いんですよね。
そして、悩ませているわりには思うような成果がでていないという、ね。
だとすれば、アドラーが言うように「課題の分離」をしたほうがよいのではないかと思いはじめているのです。
課題の分離
「嫌われる勇気」より一部抜粋
およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むことーあるいは自分の課題に土足で踏み込まれることーによって引き起こされます。課題の分離ができるだけで、対人関係は激変するでしょう。
(中略)
アドラー心理学は、放任主義を推奨するものではありません。放任とは子どもがなにをしているのか知らない、知ろうともしない、という態度です。そうではなく、子どもがなにをしているのは知った上で、見守ること。勉強についていえば、それが本人の課題であることを伝え、もしも本人が勉強したいと思ったときにはいつでも援助をする用意があることを伝えておく。けれども、子どもの課題に土足で踏み込むことはしない。頼まれもしないのに、あれこれ口出ししてはいけないのです。
アドラーが言う「課題」とは、最終的に誰が責任をとるのか、で考えるとの事。
上記の例で言えば、子どもが勉強しない場合、そのことで最終的に責任をとるのは子ども自身です。
だから、親といえども、そこへ踏み込んでいってはいけないというのです。
僕がこれまで持っていた教育観は、「部下のやった事は上司の責任」というものでした。
これは、まだ一般的にも多くの人が持っている考え方のようには思えます。
でも、アドラーはこれを否定しているんです。
更に、こんな記述もあります。
「人生に革命が起きる100の言葉」より一部抜粋
アドラー心理学における教育では「結末を体験させる」ことを重視しています。
(中略)
リスクがあることもどんどん任せることが大切です。一度や二度の失敗を恐れて何もさせないよりも、わざと失敗させるくらいの気持ちが重要です。できるようになってから任せるのではなく、任せるからできるようになる。
これもまたすごい事を言っています。
僕が持っている教育観の中では、これができる人はとても優秀な上司といえます。
失敗しても大丈夫なラインを見極めながら、どんどん仕事を任せていく。
仮に失敗したら、その責任は上司がとる。
文章で書けば簡単なのですが、実際やるとなるとものすごく難しいことです。
少なくとも、今現在、僕はここまでできません。
でも、これはあくまで僕の教育観で考えた場合の話です。
アドラー心理学の考え方でやるとすれば、「失敗しても大丈夫なラインを見極めながら」という事は考えないということになります。
とにかく、仕事を任せてしまう。
但し、放任主義はいけないので、どんな状況かを理解しつつ、援助が必要な場合はできるかぎりの援助をする。
その結果が大失敗だったとしても、一緒になってなんとかしようとする。
こういう事なのでしょうか。
この2つのやり方、上司の立場と部下の立場、それぞれどっちがいいでしょうか。
任せた結果が成功なら問題はないはずなので、結果が失敗だったときの事を考えてみます。あくまで主観ですが。
上司の立場から考える
僕の教育観のほうは、作業範囲の指示も含めて上司が全ての責任を背負う形になるため、部下としては指示があったことをやっていただけという気持ちもあるでしょう。
指示どおりやったんだから、あとの責任はとってくれ、と思われるはずです。
上司もそのことは承知していますから、なんとかしなければと思います。
でも、だからこそプレッシャーは重いですね。
それに対して、アドラーのほうは、判断も含めて動いているのは部下です。
自分がやった結果として失敗したのだから、自分でもなんとかせねば、と思いやすいのではないでしょうか。
責任を分担している形になるので、上司としても負担が軽くなり、動きやすくなります。
したがって、アドラーのほうが動きやすいです。
部下の立場から考える
僕の教育観のほうが楽です。
部下は指示どおり動けばいいのですから、作業に集中できます。
でも、責任をとらくていいということは、自立していない証拠でもあります。
アドラーのほうは、責任の一部は自分でとらなければいけません。
逆にいえば、一部は上司が負担してくれつつ、責任のとりかたも体験することができます。
成長していこうと思えば、自分の足で立つ方法を覚えることができるほうがよいのではにないでしょうか。
したがって、アドラーのほうが将来につながります。
あとがき

ということで、上司の立場からも、部下の立場からも、アドラーの考え方のほうがお互いに良い結果を生むという考えに至りました。
まだ完全な整理はついていませんが「課題の分離」をした上で、「叱らず褒めず」という教育のしかたもある、ということです。
自分でも整理がついている内容ではないので、記事としては結論がない部分はご容赦ください。
まだまだ深い内容ですので、引き続き整理していきたいと思っています。
今日のところはここまで。
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